2018-01-05

荒々しくも力強い今までとは別種のタイプの日本人が必要だ


1945年。日本全土が灰燼と化して、もはや日本は終わったと世界中の誰もが思った。ところが、日本人はそれから猛烈な勢いで働き始め、国を立て直し、奇跡の高度成長を遂げた。

主要都市が空爆によってガレキの山と化し、広島と長崎は原子爆弾で壊滅状態になったのだが、1956年には「もはや戦後ではない」と経済白書で宣言するほどになっていた。日本は不死鳥の如く蘇った。

すべてを破壊された国が、たった10年ほどで「もはや戦後ではない」と言っているのだ。客観的に見ても、それがどれほど凄まじい復興スピードとエネルギーだったのかが分かる。

原爆が投下されて「もはや人間の住む場所ではなくなった」と言われた広島や長崎でさえも、苦難から復興していた。

もちろん、社会的に見れば様々な僥倖が日本にあったことも事実だが、その前に何もかも失った日本人がアグレッシブに働き、日本を立て直したというのは誇るべきだ。

これが日本人の気質であり、国民性だ。この気質がなければ、日本は復興できなかった。泥をすすっても生き残ること、へこたれないこと、窮地でも生き延びることを、この頃の日本人は持ち合わせていた。

不屈の精神力と生命力がそこにあったのだ。


何でもある時代が、不屈の生命力を喪失させた


ところが、これほどまで高度成長した日本も、1980年代になると徐々にハングリーさを見失うようになった。ギラギラとした燃えるような目で目標に向かって邁進する日本人が少しずつ消えていった。

1970年代以降に生まれた日本人は、もう生まれたときから「欲しいものが何でもある」ような時代になっていたのだ。がむしゃらにならなくても、モーレツにならなくても、何か欲しいと思ったら親が何でも与えてくれた。

終戦後の混乱した時代を知る親世代は、自分が子供時代に欲しいものが何も手に入らなかった悔しさを知っている。せめて自分の子供は、悔しい思いをしないですくすくと素直に育って欲しいと願ったのだ。

折しも日本は一億総中流時代に入っており、よほどの贅沢をしなければ子供が欲しいと思うものくらいは買い与えてあげることができるようになっていた。

そして、どうなったのか。世界からエコノミック・アニマルと呼ばれて恐れられたり、呆れられたりしていた日本人の質が明らかに変わっていった。

若者からギラギラとした生命力が消えた。

耐える力も、継続する力も、感動する力も少しずつ消えていった。こうした日本人の変化に警鐘を鳴らす人も当時から多かったが、この流れは止まることはなかった。

結局、シラケ世代だとか無気力世代だとか言われるような、かつてのエコノミック・アニマルと言われた日本人とは真逆の世代が生まれるようになっていった。

「必死で欲しいものをつかみ取る」「死にもの狂いで何かに打ち込む」というのは、古い世代の生き方であると否定される場面さえも出てきた。

そういった空気が日本を覆い尽くすのようになっていった。日本で生きるのに、「不屈の精神力」は要らなくなったのだ。それが顕在化したのが1980年代以降だった。

頑張るという教育は受けていないし、必要なかった


日本は1980年代後半にバブルの時代を経験している。それが盛大に吹き飛んだのが1990年からである。ここから日本の経済的な縮小が始まったのだが、同時に日本人の精神的な弱体化も目に見えるようになっていた。

いつまでも親に寄生して、自立しようとしない、自立ができない依存体質の若者もこの頃から発生している。親にパラサイト(寄生)して自立を求めなくなった。

やがて2000年にもなると、日本企業が構造的に変質して終身雇用を徐々に捨てるようになった。特に、若者を正社員で採用しなくなっていった。

それが若者の将来設計を破壊して、彼らの一部は親の家に引きこもるようになっていく。自立どころか、部屋から出ないで生きるようになっていくのだ。

彼らは、もともと生まれた時から何でもあって、欲しいものは親が与えてくれる環境にあった。何も無理して頑張る必要はなかった。不屈であることは重要視されていないし、そういったものを求める社会でもなかった。

弱い存在であっても、親が助けてくれる、社会が助けてくれる、国が助けてくれるという意識が根底にあり、自らもがいて自分を助けるよりも、他人に助けてもらえるまで何もしないようになったのだ。

だが、再び時代は変わりつつある。

資本主義は弱肉強食化して、格差と貧困の社会がやってきている。グローバル化の時代はさらに加速するので、競争は世界規模になり、ますます時代が過酷になることは分かっている。

国内情勢を見ても、少子高齢化で国力が減退し、高齢者が増え、財政赤字が膨らみ、社会保障費の増大に歯止めをかけたい政府が、ゆっくりと確実に福祉や医療費を削減するようになって、「自分の面倒は自分でみろ」と国民を突き放す。

誰も助けてくれない、誰も助けられない、自分で自分の人生を見るという「当たり前」がこれから重要になってくる。社会が構造的変化しつつあるのだ。

再び、死に物狂いで生き残る生命力が必要になる時が到来しつつあるのだ。

戦後70年の平和は永遠に続くものではなかった


生まれながらにして何でも手に入る温室環境であれば、強い生命力など必要ない。温室でぬくぬくと育って一生を終えることができる。

しかし、温室が消えて過酷な環境になったなら、過酷な環境に合わせて雑草のように踏まれても生きられるようにしなければならない。踏まれても起き上がってくる生命力が必要だ。

少子高齢化による国力の低下がより鮮明化して貧困が拡大していけば、日本人の次の世代は「何が何でも生き延びてやる」という生命力を身につけなければ生きていけない時代がやってくる。否が応でも、それが必要になる。

戦後70年の平和な時代は永遠に続くものではなかった。それは間もなく終わる。バブル崩壊以後、日本の社会環境はゆっくりと厳しいものになっていったのだが、これから起きる激動はその比ではない。

平和も平等も消える。対立と衝突がやってくる。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる時代、憎悪が剥き出しになった時代が、次の時代である。

「愛だ、平和だ、平和憲法だ」と言っていれば平和でいられるわけがない。そもそも、世界各国の民族は、別に平和であることが重要だと思っていない。(平和と平等が世界の常識だと盲信しているのは日本人だけだ

時代の激変がやってくる。そうであれば、今後の日本人が必要とするのは、かつての日本人が持ち合わせていたギラギラとした生命力であると誰もが気付く。

打たれてもへこたれず、叩きのめされても潰れず、しなやかにして強い精神力と生命力が必要だ。

日本の温室的環境が終わったのだから、いち早くそれに気付いて自らを過酷な環境でも生きていけるように鍛え直すことができる人が次の時代でも生き残れる人となる。

かつての日本人が持っていた不屈の精神力と生命力を、自分の中に取り戻さなければならない。

荒々しくも力強い、今までとは別種のタイプの日本人、戦国時代やサムライの時代にいた本来の日本人像の復活がこれから必要になる。

日本人が不屈の精神力と生命力を取り戻すことで、日本は新しい時代で再び不死鳥のように蘇ることが可能になる。



瓦礫の山と化した戦後の日本。しかし、日本人はここから10年で復興した。以後、日本は平和になったが、日本の温室的環境はもう終わった。過酷な時代がくる。かつての日本人が持っていた不屈の精神力と生命力を、早く自分の中に取り戻さなければならない。


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