2017-08-29

憲法第九条を守ったところで、ミサイルも侵略も止まらない


北朝鮮が好き放題にミサイルを発射しているが、日本政府ができることはアラームを鳴らすとか、厳重に抗議をするとか、遺憾の意を表明するとか、そんなところでしかない。

それで北朝鮮が反省するのかと言えばするわけがない。また、北朝鮮に向かって「戦争反対」と言っていれば、平和になるわけでもない。

この「当たり前」を認識するのは非常に重要だ。戦争は、自分ひとりでするものではない。戦争は「相手」があって始めて起こり得る。

どちらか一方が暴力を行使してでも相手の領土が欲しいと思ったら、別の一方がいくら平和を望んでも平和にならない。

むしろ一方が憎悪や侵略の意図を持っていた場合、こちらが平和主義であることは国家を危険にさらすことになる。刃向かってこないと分かっている相手には、暴力を仕掛けやすいからだ。

報復されないと思えば何でもできる。

たとえば、グアムに向けて撃ったら核で報復されるアメリカには何もできないが、上空にミサイルを飛ばしても「憲法第九条を守れ」とか言っているお花畑の国民がいる日本には何でもできるということだ。


平和とは、お互いが望まないとやって来ない


侵略の野心や暴力による恫喝を隠さない中国や韓国や北朝鮮のような国があって、これらの国が虎視眈々と日本を狙っている中では、いくら日本だけが「平和」を唱えても無駄だ。

日本が平和を望み、それを志向していたとしても、激しく日本を憎悪する反日国家が侵略や戦争を仕掛けてきたらどうなるのか。

いくら日本が「平和を望んでいる」「憲法第九条」と言ったところで、嘲笑されるのがオチだ。

平和は、お互いが望まないとやって来ない。一方が平和を望んで、一方が暴力闘争を望んでいたら、その時点で平和という概念は霧散霧消していく。

これは普遍的な事実である。

たとえば、中国はチベットや新疆ウイグル自治区で少数民族を激しく弾圧している。さらに南沙諸島でも領土的野心を隠さなくなっている。インドとの国境でも衝突を起こしている。

中国は軍事費を増大させ、すでに膨張主義に突き進んで国際問題を引き起こしている国なのだ。

こんなときに、非暴力主義や無抵抗の姿勢を見せていたら、「弱い」と認識される。抵抗しなければ、じわじわと侵略されて窮地に追いやられていく。

平和主義者は「単なる無抵抗の弱者」と思われ、ますます強引に侵略工作が進んでいく。

もし、そんな中でも平和を叫びたいというのであれば、平和主義者は「中国に向かって」平和を叫ぶ必要がある。日本政府に向かって平和を守れと叫ぶのではなく、中国に向かってそれを叫ばなければならないのである。

これは、当たり前のことだ。中国は公然と軍事的行動を行って周辺国に懸念を与えているのだから、平和の尊さを思い出さなければならないのは中国の方だ。

平和を乱しているのは中国の膨張主義なのである。だから、憲法第九条信者は北京に行って、習近平に向かって「陸海空軍その他の戦力はこれを保持してはならないという憲法第九条を中国も取り入れよ」と抗議デモを行うべきなのだ。

中国・韓国・北朝鮮に行って憲法第九条を叫べ


日本の国会議員で「戦争したい」と言っている人は見たことがない。戦争どころか、「反日国家には報復外交しろ」と言える勇気のある議員すらも一人もいない。

だから、日本は中国・韓国・北朝鮮にやられっぱなしなのだ。

日本政府や日本人に向けて「暴力反対」と言っても仕方がない。それは、まるで家庭内暴力を受けている妻に「暴力反対」と叫んでいるようなものだ。

暴力を振るっている側にそれを叫ばなければならないのに、暴力の被害者にそれを叫んでも何の意味もない。意味がないどころか、有害ですらある。

だから、憲法第九条信者は、今こそ中国・韓国・北朝鮮に行って「お前たちは憲法第九条を取り入れろ」と叫ぶ必要がある。「陸海空軍その他の戦力はこれを保持するな」とこれらの反日国家に言わなければならない。

日本は戦後72年、ずっと平和を守ってきた実績がある。そして、日本人は誰ひとりとして戦争をしたいと思ってない。すでに日本人は世界でも類を見ないほどの平和主義者である。

だから憲法第九条信者はすぐに日本を出て、憲法第九条を習近平に突きつけるのだ。中国大陸に降り立って、中国人民にそれを布教するのだ。

チベットに行って、弾圧されているチベットの人たちと共に、中国の兵士たちに憲法第九条の大切さを訴えてくればいい。

あるいは竹島を不法占拠している韓国や、ミサイルを飛ばしまくっている北朝鮮で、「お前たち憲法第九条を取り入れて平和を守れ」と叫びに行くのも良いアイデアだ。

憲法第九条が素晴らしいと心情的に思い、そのために運動をするのであれば、まずは潜在的に日本に危険をもたらす反日国家に行って、命がけで布教するのが先だ。

まわりが軍事費を増大させたり核開発をしたりして凶暴化しているのに、自分だけが平和主義者になっても仕方がない。

武力を放棄していいのは、侵略されないという環境にあるときだけだ。侵略される危険性があるのに武力を放棄するというのは、ただの馬鹿である。

戦争が起きれば、暴力を「振るわれる」のだ


日本の平和主義者は「戦争」と聞くと、ややもすれば自分が暴力を「振るう」立場の方をイメージするかもしれない。しかし、それは戦争の一面である。

戦争が起きれば、暴力を「振るわれる」のである。

本土が戦場になれば、町が焼かれ、破壊され、自分が殺され、自分の妻や娘が集団レイプされるような激しい暴力が振るわれる。

戦争の現場の凄惨さは誰もが息を飲む。いったん本土決戦になれば、暴力が容赦なく降り注いできて、そんな凄惨な現場に立たされる。

誰もそんな悲惨な現場に立ちたくない。見たくもない。しかし、戦争を仕掛けられて反撃も何もできなければ、激しい暴力が現場に舞い降りてくる。

自分の住んでいる場所が殺戮の大地になっていく。自分も家族も友人も知り合いも、みんな残虐な暴力の犠牲になる。

暴力は「振るわれる」ものであると想像して欲しい。自分の肉体が破壊され、ズタズタにされると想像して欲しい。自分の家族が皆殺しされるのが戦争だと想像して欲しい。

非暴力や平和主義が「単に弱い存在」と認識され、国に反撃の能力がなければ、平和憲法があろうがなかろうが、そんなことに関係なく暴力で叩き潰される。

現在、日本のまわりには、信用できない国がサメのように遊泳して隙あらば襲いかかる態勢になっている。

こんな中で、無防備な平和主義を唱えることは、日本人の殺戮を誘導するものであり、ある意味それは殺人の共犯に近い立場であるということに気付くべきである。

戦争反対と言っていれば、平和になるわけではない。侵略が進む中での平和主義の押しつけは、ワナである。



現在、日本のまわりには、信用できない国がサメのようにまわりを遊泳して隙あらば襲いかかる態勢になっている。こんな中で、無防備な平和主義を唱えることは、日本人の殺戮を誘導するものであり、ある意味それは殺人の共犯に近い立場であるということに気付くべきである。


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