2017-07-15

ギャンブルに関わっている人間と付き合うべきではない理由


厚生労働省研究班は、2014年8月20日に、日本にはギャンブル依存症の疑いのある人が500万人以上も存在するという発表をしている。

日本のギャンブルはパチンコやスロットがメインだ。

パチンコについては数十年前からたびたび問題が指摘されているにも関わらず、多額の政治献金によって厚く保護されており、今も深刻な依存者を生み出し続けている。

いったん、パチンコにハマると、そこから抜け出せなくなる。借金をしても、子供を放置しても、また会社の金を横領してもパチンコに邁進していく。

パチンコをはじめとするギャンブルは、泥沼に引きずり込まれると人間を廃人化させる。

ギャンブルをしない人間には、それの何がそんなに面白いのかまったく分からない。基本的にギャンブルとは、「幸運」を得て他人より恵まれたいという祈りにも似た気持ちで成り立っている。

自分がどんなに無能で、自堕落で、情けない人間であったとしても運が良ければ勝てる。だから、自分の情けなさを一気に解消するために、それにのめり込む人がいる。


賭博という労働で一攫千金が成し遂げられるかも


ツキと幸運で、一攫千金が成し遂げられる可能性がある。それは自分自身の能力はまったく関係ない。道ばたで金を拾ったのと同じだ。

道ばたで大金を拾って誰にも返さなくてもよい、という話であれば誰もが狂喜乱舞するだろう。ギャンブルで勝つというのは、それと似たような快楽である。

だから、いったんその快楽が形成されると、もうそこから逃れられない。

すべてのギャンブルはなかなか勝てないのだが、たまに勝てると強い快楽に浸れる。だから多くの人が一攫千金の期待感にのめり込み、ハマって抜けられない。

そんな人が約500万人もいるというのだから凄まじい。彼らがゾンビのようになって一攫千金を求めてうろついている。

しかし世の中をよく観察してみれば、本当に儲かっているのは、ギャンブラーではない。場を提供している胴元の方だ。

ラスベガスの賭博場でも、東南アジアの地下の違法賭博でも同じだ。胴元が儲けている。ギャンブラーはたまに勝つことがあっても、総合的に見れば金を搾り取られている。

ほとんどの場合、ギャンブラーは「カモ」なのである。

ギャンブルは胴元が仕切っている。だとすれば、そのシステムの上で勝負をするのであれば、胴元の立場が強いであろうことは直感的に理解できるはずだ。

ラスベガスやマカオでのギャンブル・ビジネスが成り立つのは、胴元が負けないシステムになっているからだ。プレイヤーの腕は長い目で見ると関係ない。

そうでないとギャンブル・ビジネスは成立しない。もし、確率的に50対50なのであれば、胴元は頻繁に破綻に追い込まれているはずだが、そうなっていない。

それはすなわち、ラスベガスやマカオの胴元が勝つ確率は、常に50対50よりも高いことを意味している。

幸運がなかなか自分に回ってこない理由とは?


ラスベガスやマカオが巨大賭博ビジネスで繁栄しているということは、すなわちそこに賭ける人間には不利な確率が科されているということだ。

胴元も勝つか負けるか分からないような設定をしていたら、胴元も何度破産するか分からない。普通、胴元が破産することは絶対にないのだが、それは胴元が常に勝つようにできているということを意味してる。

こんなことは秘密でも何でもない。子供であっても理屈は理解できるはずだ。

しかし、ギャンブラーは胴元が勝つのが分かっていても騙されに賭場に向かう。道ばたに金が落ちている類いの幸運を賭場に探しにいく。

幸運はそれほど世の中には転がっていない。その理由はなぜか分かるだろうか。

それは、たとえば道ばたに金が落ちている例で考えれば分かりやすい。

道ばたに金が落ちているのに気付く日はほとんどない。金は誰にとっても大切なものなので、人はゴミを落としても金はなかなか落とさないようになっている。

だから、金が道ばたに転がり落ちている確率はもともと少ない。さらに、道ばたに金が落ちていれば誰でも拾う。道を歩いているのは自分ひとりではない。

自分の前にも後にも何十人、何百人、何千人、何万人が歩いているのだ。これは仮に金が落ちていたとしても、自分以外の誰かが先に気付いて拾っているということだ。

金が道ばたに落ちている確率が低いのに、自分がそれを拾う確率も低い。だから、幸運はなかなか自分に回ってこない。誰でも欲しいものは、簡単に手に入らないようになっているのである。

「金が道ばたに落ちていて、それを自分が拾う」という偶然でさえも確率が低いのに、ギャンブルのように仕組まれたものであれば、もっと確率が低いのは言うまでもない。

ギャンブルは「不運の確率が高い」ゲームである


幸運は確率が低い。確率が低いものを追うのは合理的ではない。だから、勝つ確率の低いギャンブルに人生を賭けるのは合理的ではない。

幸運の反対語は不運である。幸運の確率が低いということは、これを逆に言えば「不運の確率が高い」ということに気付かなければならない。

ギャンブルは幸運よりも不運の確率が高いゲームなのだから、やればなるほど「不運が積み重なる」ということになる。

不運に見舞われる確率の方が高いのだから、関わるほど不運の時間が長くなる。ギャンブルにハマっていない普通の人であればすぐにその点に気付く。

しかし、もはやそんな単純な話ですらも感覚的に分からなくなってしまったのがギャンブラーである。日本だけでも、500万人が感覚が狂って正常でなくなっている。

ギャンブルは結局、何にしろ胴元が勝つ。それでも、多くの人が心の奥底ではそれが分かっていて、ギャンブルから逃れられない。

「ひょっとして勝てるかもしれない」
「一攫千金が自分の身に起きるかもしれない」

そのように思うと、負ければ負けるほど抜け出せなくなるのだ。抜け出せなくなって借金まみれになり、本当のどん底にまで転がり落ちたらどうするのか。

ギャンブラーは、そこで大借金をするか、金を盗むかして「最後の大一番」に望む。

「賭博で負けた金は賭博で取り戻せ」

しかし、幸運は確率が低い。そのため映画のような見事な逆転劇もほとんどない。最後の大一番は、人生の最期になる可能性が高い。

ギャンブルに関わっている人間と付き合うべきではない理由がここにある。「不運を積み重ねる人」と付き合って、何か得することでもあるのだろうか?



ギャンブルは結局、何にしろ胴元が勝つ。それでも、多くの人が心の奥底ではそれが分かっていて、ギャンブルから逃れられない。「ひょっとして勝てるかもしれない」「一攫千金が自分の身に起きるかもしれない」と思うからだ。


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