2016-12-14

社会的に不利な人間ほど、どんどん不利の深みに落ちていく


社会的に不利な状況というのは、同じ境遇の人でない限り、よく理解されないことが多い。

たとえば、健康な人には病気を抱えて生きている人の苦しみは分からない。若者は老人の動作の鈍さに苛立つ。

充分な給料をもらっている人は低所得の人たちを蔑む。仕事のある人は失業者を憐れみ、高学歴者は低学歴者を自業自得と嘲笑う。そして正社員は非正規雇用者を負け組と考える。

社会的に不利な立場にある人は、基本的に理解されない状況に陥る。そして、その苦境を「自己責任」のせいにされやすい。

実は社会的に底辺に堕ちている人たちの中には、明らかに自己責任としか思えないような言動をして、自ら立場を悪くする破滅的な人や、最初から個人や社会に寄生して働かないで生きようとする自堕落な人も存在する。

そのため、自己責任という考え方は100%間違っているというわけではない。しかし、世の中は明瞭に白と黒で区分けできるようになっていない。

社会の底辺に堕ちた人の中に、完全なる自己責任の人がいても不思議ではないのだが、「自己責任がすべてではない」というのもまた事実である。


「弱り目に祟り目」というのは本当のことだ


生まれながらに貧しい家庭であったり、病弱であったり、虐待を受けていたり、IQ(知能指数)が低かったり、不運な環境であったり、事故や病気で障害を抱えたりして、うまく社会に適合できない人もいる。

ひとつ不利なことがあれば、それが別の不利を呼び、不利が複合的になっていく。

「弱り目に祟り目」というのは本当のことだ。1つ悪いことが起きると、次から次へと悪いことが起きていく。悪いことが悪いことを呼び寄せるのだ。

たとえば、家庭が極度に貧しかったとする。それは子供自身は気付かないかも知れないが、社会的に見れば不利を背負っているとも言える。

貧しかったので親に学費を負担させるのを遠慮して、進学よりも就職を選ぶ若者もいる。高卒どころか、中卒で就職する若者も存在する。

そうするとどうなるのか。高スキルの仕事を任せてもらえないので、低賃金の仕事しか就けないことになる。そうした仕事は条件も環境も悪いので、少しでも状況の良いところに移ろうと考えて仕事を渡り歩くことになる。

ところが仕事を渡り歩くと、より就職に不利になっていき、条件の良い仕事はますます遠ざかっていく。失業する期間も出てくる。そして最後には、非正規雇用かパートのような仕事しか見つからなくなる。

そうした環境の中で無理して働いているうちに健康を害することになる。しかし、金銭的にも時間的にも病院に行く余裕がなく、病気を悪化させる。

自分の環境に嘆き、自暴自棄に陥れば、アルコールや喫煙などの悪癖にも染まっていき、寿命を縮める。

低所得の人たちの寿命は高所得層の人たちよりも短命であることが知られている。

この人の最初の不利は「家庭が貧しかった」という、たったひとつの社会的不利だった。しかし、その1つの不利は、低学歴、低所得、失業、非正規雇用、病気、悪癖、短命……とありとあらゆる社会的な不利を呼び、複合的になっていく。

複合的な不利も、最初はたった1つの不利だった


考えなければならないのは、「家庭が貧しかった」というのは自己責任でも何でもないということだ。

それは運命だったのだ。

「貧しい人は全員、貧困が決定付けられているわけではない」というのは事実だ。しかし、極度な貧しさを克服するというのは私たちが思っている以上に難しい。

貧困層の家庭で生まれた子供たちは、貧困の中で生まれ育ち、そこで死んでいく姿の方が多いのだ。

たとえば、国が貧しいと大半の国民は貧しいというのは誰でも知っている。それは、本人の努力ではいかんともし難い環境があると、それを乗り越えるにも限度があるということを意味している。

私たちがもしアフガニスタンやイラクやソマリアやコンゴで生まれていたら、今の生活が成り立っていたのかを考えても分かる。

内戦や極貧という厳しい環境の中で、私たちは豊かな生活を自分の力だけで手に入れることができただろうか……。豊かに生きるどころか、もうこの世にいなかったかもしれない。

「生きているだけでも奇跡だ」という社会環境を乗り越えるというのは大変なことである。貧しい人の中には、確かにそれを克服して豊かになっていく人も存在するが、大半はそうではないということを認識しなければならない。

そのため、成人しても貧困の中で暮らしている人を指して、一概に「自己責任である」と決めつけるのは、非常に乱暴な指摘でもあるし、残酷なことでもある。

低学歴、低所得、失業、非正規雇用、病気、悪癖のすべては、自己責任のものもあると同様に、仔細に見れば自己責任ではないものも含まれている、ということだ。

その複合的な「不利」も、最初はたった1つの不利から派生することもあるのだ。

これは何を意味しているのかというと、今は何とかうまく生きていても、私たちはいつでも「たった1つの不利」を抱えることで、社会のどん底にまで堕ちる危険にあるということなのである。

誰でも、いつでも、悪夢のような世界に転がり堕ちる


たった1つのきっかけがどんどん苦難を呼び、その深みに落ちていく。それを避けられればいいが、誰もが幸運に恵まれているわけではない。

自分の人生を不利にする「きっかけ」は、誰でも経験する珍しくないものだったりする。

勤めている会社が倒産した。リストラに遭った。初めての職場で失敗した。ブラック企業だった。事故に遭った。家族が病気で介護が必要になった……。

鬱病になった。職場で人間関係のトラブルに巻き込まれた。若くして妊娠してしまった。結婚に失敗した。家庭が崩壊した。シングルマザーになった……。

親と断絶した。住居を失った。借金を抱えた。過大な住宅ローンに押しつぶされた。アルコール依存症になった。パチンコ依存症になった……。

枚挙に暇がないほど転落のきっかけがあるのだが、そのどれもが明日にでも自分の身に降りかかってもおかしくないものなのである。

その時、ひとつのきっかけが社会的な不利を生み出し、それが複合的に広がっていくことも多い。そして、その「弱り目に祟り目」を制御できなくなった時点で、人は社会のどん底に転がり堕ちる。

いったん不利に堕ちると加速度的に状況が悪化して、気付けば社会的に不利な状況から抜け出せない人生になるかもしれないのだ。

誰でも、いつでも、悪夢のような世界に転がり堕ちるきっかけがある。人生にまったく何もない人はいない。必ず自分の身に何かが降りかかってくる。

そんな時、社会のあらゆる方向に助けを求めようとしても、「どん底に堕ちたのは自己責任だ」と言われたら、もはや立ち直れない可能性もある。

弱肉強食の資本主義が蔓延していく中で、「社会的に不利な人間ほど、どんどん不利の深みに落ちていく」という現象はますます鮮明になっていく。

その中に自分の姿がないとは決まっていない。

社会はいつでも厳しいが、今もそういう非情な社会で生きているのだと自覚しながら、毎日を生きていく必要がある。不利を抱えると、それが元で叩きのめされる。しかし、何らかの不利を抱えない人はいない。それが社会の姿である。



ひとつのきっかけが社会的な不利を生み出し、それが複合的に広がっていくことも多い。そして、その「弱り目に祟り目」を制御できなくなった時点で、人は社会のどん底に転がり堕ちる。


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