2016-11-16

尊厳死とは、自分が自分らしく最期を遂げるのに必要な措置


「尊厳死」という言葉がある。日本尊厳死協会によると、尊厳死とは「延命措置を断わって自然死を迎えること」とある。「不治で末期」の場合、延命させるためだけに延命治療するのを拒否し、本人の意志によって自然死する。

日本は「死」に対して深い議論もせず、そのまま曖昧な状態にしてきた。しかし、そろそろ「尊厳死」を肯定し、法制化しなければならない時期に入っているのではないだろうか。

日本ではすでに「延命治療は行わないで下さい」と言って尊厳死を望む人に対しては尊厳死を認める方向に動いている。

延命治療によって何年も「生かされる」のは本人の本意ではないことが多い。また家族にも大きな負担をかける。そのため、そんな植物人間のような状態で生きるよりは死を望む人も多いのである。

尊厳を持って死にたいということだ。

しかし、必ずしも尊厳死に肯定する意見ばかりではない。医療の現場でも尊厳死を否定する医師も多い。医師は「患者を生かすために働く人」であり、「患者を殺すのは医師の仕事ではない」という意見があるからだ。

そもそも尊厳死は法定化されておらず、責任問題も発生する。そのため、日本では「尊厳を持って死ぬ」ことができないことが多く、苦しみながら生かされる姿もある。


生かされるのは、幸せどころか無間地獄になる?


末期癌にしろ、難病にしろ、深刻な事故にしろ、老衰による終末期にしろ、それによって人間らしく生活することができなくなり、後は医療に生かされているだけの人がいる。

痛みと苦しみに喘ぎながら延々と生かされ、他人の手をわずらわせ続けるくらいなら、「尊厳を持って死にたい」と考える人は多い。

治る見込みのない深刻な疾病によって苦痛が限りなく続き、それを強制される状況が「幸せな状況」であるとは誰も言えないはずだ。

幸せどころか「無間地獄」であると言っても過言ではない。

延命治療における医療の現場は、患者の意志を踏みにじって無間地獄に突き落としている可能性がある。

実際、もう口から食事を取ることができなくなった高齢者や癌の終末期の人に対して、腹壁と胃に穴を開けてカテーテルを通して栄養を送り込む「胃瘻(いろう)」で延命するのは虐待だという考え方も欧米にはある。

欧米は個人の意志を尊重する社会だ。個人主義で生きてきた人たちにとっては、死も個人の意志を尊重すべきだと考えるのは不思議でも何でもない。

しかし、終末期に尊厳を持って死にたいと考えるのは何も欧米人だけではない。日本人もまた同じであるはずだ。

こうした人々の「尊厳を持って死にたい」という意志を無視して、延々とその人を生かし続けるのは本当に正しいことなのかと考えれば疑問が残る。

自分の置かれた状況、経済的理由、家族の介護の負担等を総合的に判断し、合理的に決断した結果が「死」であれば、その本人の決定を無視して生かすというのは残酷なことだ。

自分の受ける医療を選択し、場合によっては延命を拒絶する権利や決定権はあって然るべきだ。

ただし、法的にも整備されていない中で尊厳死が成り行きで行われるのは危険なことである。

だから、尊厳死については法的に整備されていなければならず、そのためには尊厳死を求める世論の形成が必要になる。

不治で苦痛のある病気の場合には延命治療を望まない


命は大切だ。だから医療で助けられるのであれば、たとえ脳死であっても、植物人間であっても、激しい苦痛が続く状態であっても、延命し続けるべきだという意見も当然ある。

しかし不治で苦痛のある疾病で本人が死を望んでおり、それを証明する書類もあり、家族も延命を望んでいないのであれば、それでも助けるべきなのだろうか。

疾病に苦しんで苦しんで苦しみ抜いて「もう延命治療をしないで下さい」という患者を生かすのは、本当に「命を大切にしている」ということになるのだろうか。

むしろ、終末期の中で苦しみ抜いている人を延命させるのは、本人を拷問にかけ、家族にその姿を見せることによって家族をも精神的苦痛を与えていることになるのではないか。

死ぬまで苦痛を味わう以外に何もない時間を味わうことに、意味があるとは思えない。ただ病院のベッドに縛りつけられ、自分の意志で何もできず、死の直前まで苦しむだけなのだ。

自分がそうなったとして、そんな苦痛の時間に意義が見出せるだろうか。

「終末期に苦しみ抜いているならば楽にして上げたい」というのが本当のあるべき姿ではないのか。永遠の苦しみを終わらせて上げるのが本当の人権ではないのか。

まして個人が生前に「延命治療をしないで下さい」と言っていたのであれば、それを尊重する方が人間らしい。

「不治で苦痛のある病気の場合には延命治療を望まない」と誰もが思うはずだ。なぜなら、そんな状況で短い余生を送っても、幸せになれないからである。

そうであるならば、それは早急に法定化され、整備されるべきであり、私たちは「尊厳死を法的に認めよ」と強く主張しなければならない。

自分が自分らしく最期を遂げるのに必要な措置


尊厳死というのは美辞麗句であるという人もいる。しかし、その言い方で返せば延命治療という言い方自体も美辞麗句であることに気付かなければならない。

「延命させることはすべてにおいて正しい」と誰もが考えているわけでもない。それは多くの意見のうちの1つに過ぎない。

終末期には延命治療を行わず自然の死を全うする方が正しいと思う人もいる。延命治療よりも自然死を望む人がいるなら、それが尊重されるべきである。

もちろん、人の考え方はいろいろだ。

地獄の苦痛でのたうち回る終末期でも延命したいという人がいるのであれば、本人がそれを望むのだから延命治療は行われるべきだろう。

苦しみもがいても延命させてくれという人の自由が認められるのであれば、逆に苦しみたくないから延命しないでくれという自由も認められるべきなのだ。それがフェアな社会である。

苦しみ悶えても、すでに本人の意識がなくて植物人間のような状態になっていてもずっと生かすべきだという選択肢しかないというのは現代社会にはそぐわない。

「生」が重要なのは、生きることによって自分の価値を表現できたり、幸福を追求できたり、他人を幸せにできたりするからであると思う人は多い。

そういう人にとって永遠に自分の判別能力が失われた状態であったり、死ぬまで疾病に苦しむだけの状態であるのは、すでにその時点で自分が死んでいると思う。

もし、肉体だけが生きているのであれば、「それはもう自分ではない」のだから自然死を望んで当然である。

「自分の命が不治かつ末期であれば、延命措置を施さないでほしい」という尊厳死の概念は、自分が自分らしく最期を遂げるのに必要な措置である。法定化され、権利として認められることを切に願う。



「自分の命が不治かつ末期であれば、延命措置を施さないでほしい」という尊厳死の概念は、自分が自分らしく最期を遂げるのに必要な措置である。法定化され、権利として認められることを切に願う。


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