2016-08-09

努力を避けて不確実なものに賭けた人が見るのは常に悪夢だ


パチンコや競馬や競輪のようなギャンブルに関心を持ち、強く引きつけられ、そこから離れられなくなって依存してしまう人がいる。

あるいは、宝くじになけなしの金を投じて、大金が当たる夢を見る人がいる。

こうした人たちの存在は、別に珍しいものではない。珍しいどころか、ありふれていると言ってもいい。パチンコは今でも20兆円近い産業であり、宝くじも毎年1兆円から2兆円の売上が上がっている。

面白いことに、ギャンブルや宝くじに関わろうとするのは、圧倒的に貧困層が多い傾向があることだ。

たとえば、生活保護を受けているような人たちが、現金を支給されるとそのままパチンコ屋に直行する行動は、しばしば問題になることでもそれは分かる。

生活保護の資金をパチンコに投じるのが「問題行動」だと認識されるのは、生活や更生を託してもらっているはずの大切な資金を、何の生産性もないものに注ぎ込んでしまうからだ。


「一攫千金」という射幸心はドラッグと同じだ


貧困層というのは、1円でも10円でも無駄にする金がない。少なくとも一般常識を持った人はそう考える。

生活保護を受けなければならないような人であれば、なおさら1円を大切にしなければならないはずだと私たちは思う。

だから、そういった人たちがドブに金を捨てるようにギャンブルや宝くじに金を捨てるのを見ると、「いったい何をやっているのだ」と私たちは愕然とする。

しかし、面白いことに生活保護の金をギャンブルに注ぎ込む人たちからすると、それも「自分の人生を好転させようとする努力のひとつ」なのである。

いったい、なぜそのように考えるのか。それは「一発当たったら、後は本当に遊んで暮らせるではないか」という発想があるからだ。

「当たるかもしれない」と本気で思って、彼らはそれにのめり込んでいるのである。

「ギャンブルで儲かるのは胴元であり、宝くじは雷に当たって死ぬよりも確率が悪い」という合理的な判断が働けば、こんなものに金を注ぎ込むのはどうかしているとすぐに気付く。

しかし、依存症になっている人間はそこに気付かない。

ギャンブルや宝くじには「目くらまし」がある。その目くらましとは「やってみないと当たらない」「買ってみないと当たらない」というものだ。

宝くじを買う人の多くが「買わなければ当たらない」と言ってそれを買うのを正当化するのだが、買っても当たらない確率が高いものを買うのは合理的ではない。

それでも合理的ではないのに惹かれるのは、そこに「一攫千金」という甘い妄想があるからだ。「一攫千金」という射幸心はドラッグと同じだ。

「当たった時のこと」を考えると、脳内でドーパミンとアドレナリンが噴出して、それがくらくらとするような多幸感を生み出し、やめられなくなる。

その一攫千金の夢が、現実には悪夢を作り出す


人は一日働いて得た1万円よりも、道を歩いていてたまたま落ちているのを見つけた1万円の方が強烈な喜びを感じると言われている。

本当であれば、一生懸命に働いて手に入れた1万円の方が喜びが大きいはずなのだが、たまたま拾った1万円の方が嬉しさが倍加する人の方が多いようだ。

なぜか。それは、幸運が作用したと思うからだ。手に入る理由がないのに手に入った。それが幸運だ。

地道に働いて手に入れた金は労働の対価であり、「もらって当然」のものである。それを手に入れて幸運はあまり感じない人の方が多い。

しかし、たまたま道に落ちている1万円をモノにすると、それは自分が何もしていないで転がり込んできた予期せぬものだから、幸せのインパクトが極度に高まる。

それをビジネスに応用したのがギャンブルであり宝くじである。「ほとんど当たらないが、たまに当たる」ように演出することで射幸心を煽り立て、当たるまで金を吐き出させる。

夢を見させて、財布がカラになるまで巻き上げるのがギャンブルのビジネス手法なのである。

のめり込んだ人間は胴元にとってはカモであり、カモは金がなくなれば使い捨てだ。

普通の人は人生のどこかでその「仕組み」に気付き、自分がギャンブルにコントロールされることが真の幸せからは程遠いことに気付き、そこから離れることが合理的な選択であると認識する。

しかし、そこに気付く前にのめり込んでしまった人間は合理性を見失い、どんなに金を巻き上げられてもカモであることから逃れられなくなる。

脳裏には「一攫千金」の夢が踊っている。その一攫千金の夢が、現実には悪夢を作り出す。

手の中の一羽の鳥は、藪の中の二羽に匹敵する


「一攫千金」はめったに得られない僥倖だ。だから、このめったに得られないものを追い求めると現実を見失い、社会生活が成り立たなくなる確率が高まる。

つまり、一攫千金という不確実さを当てにするのは悪夢を生み出す元凶となる。多くの人はそれを知っているので、夢もほどほどに見て、やがて溜め息をついて現実に戻る。

「手の中の一羽の鳥は、まだ捕まえていない藪の中の二羽に匹敵する」と童話作家のイソップは言った。「一攫千金よりも、小さくても手の中にある自分のお金ほど大切なものはない」という真実に人々は気付くのである。

大多数がしばしの甘い妄想で我慢して現実に戻るのに、なぜ一部の人は見果てぬ夢である「一攫千金」にとらわれてギャンブルのようなもので身を破滅させるのだろうか。

そこには、勤勉や、向上心や、たゆまぬ努力や、継続や、忍耐を、嫌う心境が見え隠れする。

勤勉であることは、疲れるし面倒なことだ。努力も、継続も、忍耐も、すぐに成果が得られず、得られたとしても小さなものかもしれない。面倒だし、格好が悪いし、泥臭い。とても苦労する。

しかし、勤勉であれば着実に「手の中の一羽」を手にできる。継続は、一羽を二羽に、二羽を三羽にする。それを積み上げると、やがて何も持たない状態から抜け出せる。

それは時間がかかるのだが、それでも一攫千金よりも合理的で安全で着実である。地に足が付いた生き方とは、このように誰もが知っている常識を積み上げたところにある。

ところが、「そんな努力はしたくない」と考える人がいる。

ギャンブルや宝くじというのは、そんな人間に残されたほぼ唯一の希望となる。勝てないとしても、勤勉や努力や継続ができないのだから、いちかばちかに賭けるしかない。

しかし、努力や忍耐を避けて不確実なものに賭けた人が見るのは、常に悪夢でしかない。

駅前の一等地に林立する騒々しいパチンコ屋に出入りする人間を見て欲しい。彼らには悪夢しかない。そして、彼らから「手の中の一羽」を奪い取ってパチンコ屋は一等地に醜悪な建物を建てる。あれは、悪夢の象徴である。



努力や忍耐を避けて不確実なものに賭けた人が見るのは、常に悪夢でしかない。


お願い

ダークネスTIGAの本文の全文転載は、いかなる理由があってもお断りします。
本文の舞台、参考になる写真がありましたら、提供いただければ嬉しく思います。感想やご意見も、お待ちしております。趣旨に合うものについては、積極的に反映していきたいと考えております。(メールはこちら