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2016-02-01

会社では切り捨てられ、家族は解体、結婚も成立しない社会


中国は完全に成長を失った。そして、グローバル経済は「次」の成長エンジンをまだ見つけていない。そのためグローバル経済は当面、成長のエンジンを失ったまま推移して、停滞を余儀なくされる。

2016年1月29日、日銀のマイナス金利導入という英断で日本は円高・株安の不吉な流れを断ち切った。

しかし、グローバル経済が成長しないのであれば、企業の成長も困難な道になる。このままでは、いずれはじり貧に落ちていったとしても不思議ではない。

次の成長が見つかるのかどうかは誰にも分からないのが、もし見つからなかった場合はどうなるのか。

株価が下がるだけなら、一般人にはまったく関係ない。日本人で株式を保有している層はそう多くないからだ。

しかし、企業が成長できないのであれば、必ず人員整理が始まる。株価の心配よりも前に、自分の仕事が続けられるかどうかの方を心配しなければならなくなる。

今の企業は容赦ないリストラを断行するのに躊躇はない。グローバル経済が成長できないと日本でも雇用調整が始まり、自分の人生の先が見えない状況になってしまう。


それは安定にも安心にもつながらなくなっていった


日本人の8割はサラリーマンであり、他人に給料をもらいながら生きている立場にある。こうした生き方は、高度成長期には非常に効率の良い生き方でもあった。

終身雇用だったので、ただ会社に居るだけで生活が安定し、人生が読めた。黙々と、真面目に勤めていれば、食いっぱぐれがなかった。

自分の人生が10年後にはどうなっているのか、20年後にはどうなっているのか、会社にいる10歳、20歳年上の人間を見れば分かったのである。

波乱がないというのは平凡で面白味がないということだ。しかし、それでも安定した生活が保証されているというのは、何にも代えがたい幸せでもあったはずだ。

明日はどうなるのか分からないような人生では、ゆっくり眠ることもできない人も多い。

しかし、このサラリーマンでいることの安定と安心は、日本の衰退が決定的になった1990年代からのバブル崩壊でゆっくりと崩れ始め、2000年代に入ってから急激に悪化していった。

サラリーマンであることは、安定にも安心にもつながらなくなっていったのだ。日本企業もグローバル化の波に洗われ、業績が悪くなるとリストラをするようになっていった。

日本人はこの状態に苛立って、2008年には一か八かの勝負で民主党に賭けた。ところが、この民主党は売国政権であったので、日本をさらに阿鼻叫喚の地獄に陥れ、状況を完全に悪化させてしまった。

円高は放置されて国際的競争力は喪失し、株式市場もそれを反映して底辺を這い回った。この地獄は2012年まで続いたのだが、この中で企業は非正規雇用者を増やし続けたので、日本人の貧困はじわじわと確実に深まっていった。

2012年になってやっと日本は、空前絶後の害悪政権である民主党を政権の座から引きずり降ろし、安倍政権になってから明確に円安・株高基調になって日本は一息ついた。

しかし、企業はすでに非正規雇用とリストラをするのが当たり前の体質となったので、サラリーマンをしていれば生活が安定するという時代に戻ることはない。

いつでも「個人」になってしまうという危機感


サラリーマンとして真面目にやっていれば定年まで勤められて、退職金をもらって悠々自適の生活に入るという時代は雲散霧消してしまった。

真面目に働こうが、遅くまで残業しようが、会社が傾けば数千人単位でリストラが始まり、人員整理の対象となって路頭に迷う人が続出する。

かつての一流企業、名門企業、老舗企業でも、いったん業績が悪化すれば、経営者ではなく社員が会社から放り出される。なぜなら、社員こそが会社の重いコストだからだ。

ここを削減して効率化できれば、売上が上がらなくても利益は確保できる。

今後、グローバル社会は新しい成長のエンジンを見失ったまま漂流する確率が高いが、そうであれば各企業は、売上は前年度と同じであっても利益を出す体質にしなければならない。

人を減らせば出費が減らせるのだから、これからすべての企業は必ず赤字でもないのに人員整理を始めることになる。サラリーマンは、会社から見捨てられる時代なのである。

そんな状況なので、日本人はもうサラリーマンを続けていても安定など得られるはずもない。いつでも「個人」になってしまうという危機感が必要になる。

これから来るのは、究極の「個人化」なのだ。

サラリーマンを辞めて次の会社に勤めたとしても、社会全体がリストラや非正規雇用を常態化させているのだから、その新しい会社でもまたリストラされる可能性がある。

組織にいても、それはかつてのように強固な結びつきではなく、必要がなくなればいつでも切れる結びつきだ。そのため、組織にいながら「個人」の状態となる。

いつでも会社の都合で切られるのだから、もう組織に寄りかかることができない。頼ることもできない。自分しか頼れない時代になった。

個人の能力が、生き残れるかどうかの大きな要素


現代社会はひとりひとりの人格を尊重する社会になっているのだが、人格を尊重するというのは、その人の生き方はその人が自分で責任を持つ社会になったということなのだ。

つまり「自由に生きて良いが、その結果は自己責任」というのが現代社会の常識である。

社会の規範が緩くなればなるほど価値感はバラバラになる。「どの価値感で生きてもいいが、その結果は自分で責任を負え」ということだ。

だから、今や家族も解体傾向にあり、結婚も減少する社会となっている。互いの価値感の違いを尊重すると、皮肉なことに価値感が違うので共存ができないのだ。

個性や価値感を重視する傾向は変わらないので、現代社会は必然的に「個人化」していくのを避けることができない。

個人化が進めば家族は成り立たないし、夫婦でも両方が好きに生きるのであれば結婚する意味もないと考える人が増えていくので止められない。

こうした社会の動きの中で、会社も終身雇用を捨てて、「必要なときに雇って要らなくなったら切る」という方向になったのだから、私たちは会社も、家族も、自分を守るものではなくなったことに気付かなければならない。

私たちは、個人化した。自分だけが頼りの時代になった。会社では切り捨てられ、家族は解体、結婚も成立しない社会に生きる時代になった。

次はどう動くのか、どう生きるのか、会社や上司が決めてくれるような時代でなくなった。自分で試行錯誤して生きなければならない。そして、その結果は自分が責を負う。

そのため今後の社会では、個人の能力が生き残れるかどうかの大きな要素となる。

誰もが思いつくように、それは非常に苛烈で厳しい社会である。能力のない人間は死ねと言っているような社会なのだから、まさに弱肉強食の社会だ。

組織が切り捨て志向になっている以上、自分を頼りにするしか生きられず、個人の能力をいかにして収入に結びつけるかということを常に考えなければならない社会になっている。

今後は、それができるかどうかで、生き残れるかどうかが決まってくる。こんな凄まじい社会に私たちは生きなければならなくなっている。恐ろしいと思わないだろうか?



次はどう動くのか、どう生きるのか、会社や上司が決めてくれるような時代でなくなった。自分で試行錯誤して生きなければならない。そして、その結果は自分が責を負う。

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