2015-04-17

平和を願って平和になるなら、世の中は今頃とっくに平和だ


誰でも平和主義でありたい。誰でも人に優しくありたい。そして、争いごとや揉め事もなく暮らしたい。それは理想であり、素晴らしいことでもある。

しかし、いくらあなたが平和主義でいたとしても、世の中は平和主義だけで成り立っているわけではない。時には、こちらの尊厳を土足で踏みにじってくる相手も出てくる。

人間の歴史とは、そういった争いの連続でできており、むしろ平和が続く時代の方が珍しい。

第二次世界大戦が終わって70年経った現在、世界のあちこちで周辺国と関係が軋むようになっている。70年も経てば、それぞれの国の力関係が変わっている。

それによって軋轢も生まれるのだから、いよいよ対立と衝突が表面化したとしても不思議なことではない。

今後は友好よりも対立が目立つようになり、やがて大きな衝突へと発展していく。対立は暴力を生み出すのだから、暴力の時代が到来しても驚くことは何ひとつない。


人は自分の尊厳のために相手と戦うことも辞さない


企業経営者はマネージメントとは激しい利害対立やトラブルの折衝であると知っている。弁護士は人間社会が対立でまみれているからこそ成り立つ職業だ。

警察は暴力に対峙して給料をもらっており、刑務所は暴力的な犯罪者でいっぱいだ。暴力があるから警察という組織がどこの国にもある。

人は意見が違い、利害が対立し、それぞれの国は周辺国と衝突する。宗教対立で衝突し、民族対立で衝突し、領土問題で衝突し、歴史問題で衝突していく。

これは、歴史を見れば分かることだし、現実に今も世界中のあちこちで衝突が起きている。

民族のプライドや、国家の威信や、国益のために譲れないものがたくさんある。誰かがそれを侵害するから、それに対して抵抗が生まれる。

自分たちの尊厳が傷つけられたり、侮辱されたり、騙されたり、襲われたりすると、人は自分の尊厳のために相手と戦うことも辞さない。

それを否定することは、自分を否定することにもつながる。

暴力を否定するのは当たり前だ。しかし、自分の尊厳を踏みにじられている時、あるいは自分たちの権利が侵害されようとしている場合、あるいは民族の危機に陥った場合、戦わなければならないことがあるというのも事実なのである。

こちらから仕掛ける必要はない。しかし、仕掛けられたときは激しく抵抗するのは「当然の権利」であると言える。それができないと民族は消滅する。

ただ、「暴力としての本能」がそこにあるだけ


世の中には平和主義者がいるのと同様に、単純に暴力を振るったり、誇示したりする人間たちもいる。

粗暴で、乱暴で、喧嘩腰で、反抗的で、危険で、荒々しく、気性が激しい人間がいる。

血の気が多く、恫喝的で、信じがたいまでに短気で、すぐにカッと来て手が出る暴力的な人間・組織・国家があるのだ。しかも、私たちが考えている以上に多い。

チンピラ、マフィア、ヤクザ、テロリスト、ならず者国家。

彼らの暴力には理屈はない。思想もない。ただ、「暴力としての本能」がそこにあるだけなのだ。

平和主義者もいるが、そうでない人間も膨大にいることをまず認識すれば、「世の中が平和である」という前提で物を考えるのが、いかに危険なのかが分かる。

日本はグローバル社会に組み込まれており、そのグローバル社会の中には暴力が蔓延していることは世界中のテロ事件を見ても分かるはずだ。

暴力を振るう人間には、相手の主義・主張など何の関係もない。たとえば、日本が平和主義であっても、憲法第九条があっても、そんなことはテロリストには関係ない。

日本に憲法第九条があるから、テロリストは日本人を殺さないのだろうか。戦うことを放棄してそれを宣言すれば、日本は侵略されないのだろうか。

もちろん、そんなことはない。日本が自国を防衛しないというのならば、暴力を振るう人間たちは、むしろ「日本は弱い」と認識し、喜んで侵略してくるだろう。

平和主義であることが、むしろ暴力に巻き込まれる確率を高めてしまうという皮肉な結果になる。逆に、「あの国を攻めたら、逆に報復されてしまう」という状態が平和をもたらす。



日本に憲法第九条があるから、テロリストは日本人を殺さないのだろうか。戦うことを放棄してそれを宣言すれば、日本は侵略されないのだろうか。ISISは日本人が平和主義だからと何か考慮してくれただろうか。

自分にも危害が飛んでくるかもしれない


映画やドラマや小説や漫画やゲームなどのコンテンツは、暴力を扱えば売り上げが上がるのだという。

だから、映画でもアクション物という名の暴力物や、ホラーという名の暴力物や、警察物という名の暴力物や、戦争物という名の暴力物や、SF物という暴力物や、ヒーロー物という暴力物で溢れている。

正義の見方が悪漢を銃で撃ち殺す暴力的な物語が繰り返し反芻されるのは、人は「どうしようもない人間が暴力的に抹殺されるのが嬉しい」からだ。

ゲームでシューティング物があるのは、自らの感情の中の暴力性を刺激されるからだ。

ボクシングやプロレスや格闘技は、コントロールされているとは言えども暴力そのものだ。

そして、ほとんどのスポーツは実は暴力の発散を暗示している。つまり、平和主義者が「争いのない世界」を願う以上に、人間は暴力を実は求めている。

そういった世の中の実態をひとつひとつていねいに、きちんと見ていけば、人間の暴力性が実感として分かるようになる。

それならば、こう思わないだろうか?

「世の中が暴力で満ち溢れているのだから、自分にも危害が飛んでくるかもしれない」

誰でも自分に暴力が向かってこないことは願う。しかし、現実がそうではないのであれば、逆に「いつでも暴力は自分に向かってくる」というふうに考えたほうが自然ではないだろうか。

平和主義は捨てたほうが裏切られなくて済む


暴力は存在する。これは自然現象として、地震や津波や洪水や豪雨や豪雪が存在するのと同じだ。

毎日、地震が来るわけではない。毎日、豪雨が来るわけではない。しかし、毎日来ないから存在しないわけではない。自然現象として、存在している。また、いつか遭遇する。

暴力もまた人間社会に付きものの「自然現象」であり、それは毎日訪れるものではないが、だからと言って存在しないわけではない。社会現象として、存在している。だから、いつか遭遇する。

私たち自身が暴力に遭遇することもあれば、私たちの国が暴力に遭遇することもある。

では、どうすればいいのだろうか。「そんな暴力は来ない」「戦争になることはない」と言って、平和主義でいるのは、頭の良い対応だろうか?

現実逃避してもしかたがない。別に私たちが暴力的になる必要はないが、平和主義は捨てたほうが裏切られなくて済む。

私たちが目指すべきなのは、「平和主義」ではなく「現実主義」だ。平和を願って平和になるくらいなら世の中は今頃とっくに平和になっている。

誰もが平和を願っているが、世の中は暴力に満ち溢れている。残念ながら、これが現状だ。

それなのに、日本人だけが、やたらと平和主義に染まっている現状には非常な危機感を覚えないだろうか。

子供の頃から、日本人は「平和、平和、平和」と繰り返し言われ続けて、暴力を完全否定するように教育されてきた。しかし、それでも、暴力は存在している。これが現実だ。

そろそろ、私たち日本人は暴力の存在を認め、日本と敵対する国家があることを認め、組織的暴力の犠牲になることを理解しなければならない時代になった。

平和主義者であるよりも、現実主義者であるべきだ。そうでないと、私たちは助からない。



誰もが平和を願っているが、世の中は暴力に満ち溢れている。残念ながら、これが現状だ。それなのに、日本人だけが、やたらと平和主義に染まっている現状には非常な危機感を覚えないだろうか。

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