2014-06-11

やがてSNSという束縛地獄から逃れる動きが台頭していく


今後、スマートフォンの位置情報サービスやソーシャル・ネットワークの機能は、さらに高度に発達していくようになる。しかし、いずれ多くの人間がうんざりするようになる。

今でもフェイスブックのようなSNSで、強制的につながってしまうことを嫌う人たちがいる。それはますます顕著な動きとなっていく。

まだ信じられないかもしれないが、そのうちに人々は「つながらない」ことに喜びを見出すことになる。つながらない場所、つながりを逆に切ってくれるサービスに殺到するようになる。

本当のことを言えば、公私問わず人と過度につながるというのは非常にわずらわしいことである。そこには義務が発生し、義理が発生する。

また、つながるというのは、他人に自分を監視させるということでもある。常に他人に見られ、ゆるやかな監視を受ける。自分の自由を束縛されることになるのだ。


そこから逃れたいと人は考えるようになる


つながる喜びよりも、束縛される苦痛の方が上回っていくと、当たり前だがそこから逃れたいと人は考えるようになる。

だから、過度に他人とつながってしまうネットワーク社会では、逆に「つながらない自由」が重要になっていくのだ。

そもそも、人間は自分の人生を生きるのに精一杯であり、日々の生活に疲れもある。そんなときに、自分とつながっているそれほど親しくない人間の一挙一動を知りたいなどと思わない。

他人が何を食べたのか、他人が何をしたのか、そんなことに関わりたくないはずだ。SNSというのは無理やりそういった人間たちと「つながらせる」サービスである。

「つながる」というのは、ほどほどが重要なのであって、私生活を侵食されるほどのつながりを求められるSNSは、やがて人々の負担となっていく。

現代人は孤独を嫌うが、これだけ「つながり」が求められるようになっていくと、逆に孤独であることの重要さも再評価される時代が急速にやってくる。

人間は社会的な動物なので、本来は孤独であるというのは危険なことである。孤独であると、押しつぶされるような寂しさに覆われて、自分が見捨てられたような惨めな気持ちを誘発することもある。

それを知っているからこそ、人間は孤独を恐れ、誰でもいいからつながろうと躍起になる。そうやってもがいている現代人に与えられたツールがSNSだった。

孤独でどうしようもなかった人が、簡単に孤独から逃れられるひとつの方法として爆発的に広がって、フェイスブック1社でも、いまや約12億人近くがこのサービスを使っている。

その中で、孤独であることが重要なこともあるというのは、どういうことなのか。



孤独は、他人の束縛を受けないということ


孤独であるというのは、逆の見方をすると他人の束縛を受けていないということである。他人の束縛を受けない状態のことを、人は「自由」と呼ぶ。

孤独であることは、自由を得るための非常に確実な手段である。誰でも束縛されていない「自由な状態」が欲しいと思うこともあるが、孤独がそれを実現する。

フランス人がよく言う「孤独が友達」というのと、「自由が大切」という言葉は、矛盾しない。孤独と自由は同じ方向性を意味していることに気付かなければならない。

人間は、孤独になることによって、自由を得ることができるのである。これが、孤独であることの重要性のひとつである。

仏教には修行のひとつに「瞑想」がある。この瞑想は精神的にも肉体的にも、一時的に外界と断ち切って自分を世間と隔絶した状態にする。

別の言い方をすると、瞑想することによって自分を心身共に孤独の状態にして、悟りを開く。悟りというのは、今までの束縛された思考を突き抜けて自由になることである。

つまり、瞑想もまた孤独によって自由を得る作業をしているということになる。

孤独になると、必然的に自由が手に入る。そして、自由が手に入ると、本来の自分が見えてくる。本来の自分とは、他人によって束縛された自分ではなく、他人の目を気にして演技している自分ではない。本当の自分である。

よく自分を見失った人は、忽然と旅に出ることがある。これは旅の出来事を通して自分を発見する動きと考えている人もいるが、実際はそうではない。

旅に出ると、日常と切れて孤独になる。だから旅の途上では、他人の目を気にせずに本当の自分をのびのびと出せる。旅の孤独が、その人に自由を与え、その自由によって、人は失った自分を再評価するのである。



つながりを拒絶する動きがいつか台頭する


かつての日本は、農村の村社会で成り立っていたので、村の濃密な人間関係(つながり)に耐えられなくなったり、そこから排除されてしまった人は、生きていけなかった。

村八分というのは、葬式と火事以外のすべてから断絶するという行為だが、村でつながりを断ち切られるというのは、社会的に死んでしまうも同然だったのだ。

だから、人間関係の束縛の中で、人は自由を失っていった。

SNSというのは、いずれこの村社会のように、インターネットの世界を閉塞して息苦しい「束縛の世界」にしていくことになる。

四六時中、「友達」という名の監視者に見張られ、レスポンスを求められ、義理と義務を強制する世界になる。

人々はそんな世界を求めていたわけではないのに、いつの間にかSNSはそのような世界を作り上げていた。それを知らずに人々はSNSに絡み取られ、ワナにはまってしまう。

人々と簡単につながることができるというのは、孤独を嫌う現代人にとって大きなメリットである。だからこそ、SNSは人類に支持されている。メリットは非常に大きく、そして劇的なのである。

しかし、あまりにSNSは効率的に人々を過度につなげてしまうので、それによって人々をインターネットによって監視し、束縛するような負の側面も大きくなっている。

だから、つながりを強制するインターネット社会の中で、逆につながりを公然と拒絶する新しい動きがいつか台頭していく日が来る。

SNSによる束縛が人々の我慢の限界を超えたら、誰かが自由を求めて叫ぶことになるはずだ。その時は、「つながり」という言葉は、ネガティブな意味にひっくり返されて使われることになるだろう。




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