2013-01-01

あなたは「平等」という概念で何を奪われたか知っているか?


日本人は平等を尊ぶ国民性がある。あなたも平等であることは素晴らしいことだという意識があるかもしれない。

「平等であることは美しいこと」
「すべての人は平等であるべき」

そのような意識があるかもしれない。この「平等」に、実は巨大な「害悪」と「問題」が潜んでいると言うと、驚く人もいるかもしれない。

しかし、それは本当のことだ。「平等」は美しい言葉かもしれないが、その方向性を間違えると大きな災厄になる。人間を破壊する大きな原因となる可能性がある。

実は、あなたはすでに「平等」という考え方を押し付けられた犠牲者である可能性もある。

平等を尊ぶ社会の中で、あなたは抑えつけられ、精神的に破壊され、本当のあなた自身は殺された可能性が高い。


工業化の加速と、平等思想の加速


日本人はかつて士農工商制度を持っていて身分の違いが存在していた。平等ではなかった。

明治には身分制度が解体されて、形式的に平等になった。しかし、日本人が平等という考え方を手に入れたのは、1945年以降、すなわち戦後からである。

士族も華族も消え去り、財閥も解体され、日本国中が焼け野原となり、何もかも失った日本人がゼロから出発する中で、日本人は真の意味で「平等」になった。

その平等を加速させたのは、工業化社会である。

日本は戦後まもなく高度成長期に入っていったが、この高度成長期を支えていたのが「工業化」だ。なぜ、工業化の加速と、平等思想の加速は一致していたのか。

それは、工業化の正体を見れば分かる。

工業化とは何か。工業化とは、「同じ物を大量に作る」ということなのである。完全に、色も形も重さも一致させた「規格品」を大量に作るというのが工業化だ。

つまり、工業化によって作られた物質は個性があってはならず、完璧なまでに「同じ」である必要があったのである。

作られた製品には「個性」があってはならない。色が薄かったり、濃かったり、少し大きかったり小さかったりしてはならなかった。何もかも同じである必要があったのである。

これは、日本人の性格に合ったようだ。

なぜなら、日本人は昔からほとんど単一民族であり、農耕民族だったから、「同じである」ことに馴染みがあったからだ。

つまり、日本では人間がもともと均質的傾向があったので、工業化によって均質であることの利点に目覚めたのである。

地方が急速に個性を失った理由とは


「同じである」というのは、別の言葉で言えば「平等である」とも言える。

工業化時代に入ってから、日本は「同じである」「平等である」ことを推進することによって生きていけることを身を持って知るようになった。

だから、高度成長期に入ってからの日本は、まるで当たり前のように、あらゆる面でこの「平等化」を推し進めていったのである。

「規格化」「大量生産」「標準化」「効率化」とは、要するに同じものを作るための仕組みである。同じであれば便利なので、日本社会は、これを社会にも人間にも応用した。

日本の地方に行けば分かる。地方には地方独特の建物、色、文化、考え方があった。

しかし、そんな特色よりも平等化のほうが重要だと見なされたので、地方色は消されて、地方はすべて「規格品」「大量生産品」で埋め尽くされていった。

だから、地方は急速に個性を失った。戦後の日本は、個性など、どうでもよかった。ありとあらゆる部分で、「すべて同じ」「平等」が尊ばれていたのだ。

当然、これは人間にも応用された。規格化された工業製品を作るためには、「規格化された人間」が大量にいたほうがいい。

考え方も、気質も、生活リズムも、みんな同じ「均質」である規格化人間が、規格化された製品を作るとうまく行く。だから、政府はまず何をしたのか。

それは教育の規格化だった。

日本の教育は完全に規格化されたのだ。生徒の個性など「あってはならなかった」のである。

「みんなと同じになる」ように矯正


個性的な教育、個性的な教師、個性的な生徒。こういったものは工業化時代には役に立たないものだ。そんな人間は大量生産を黙々と作れないからだ。

日本に必要なのは、大量生産を作れる規格人間だったのだ。

だから、日本国中で、同じ教科書が使われ、同じ教育方法が取られ、同じカリキュラムで教育が進められた。

生徒の個性を奪うために、子供は制服という同じ色・同じ作り・同じ品質の服を着せられ、場合によっては髪型も同じにさせられた。

同じように行動するために「団体行動」をきちんとできるように教育される。

日本の学校教育は何かを学びに行く場所だと勘違いしている人はいまだにいる。そうではない。

日本の学校教育とは「みんなと同じになる」ように矯正される場所なのである。

だから、優秀な部分を伸ばすという教育はない。そんなことをすれば「個性的」になってしまうからだ。

人間を規格品にするためには、優秀な部分を抑え、不得意科目を補習させて平均に近づける必要がある。

分かるだろうか。得意を抑え、不得意を平均に近づけ、「同じ人間」になるように徹底的に躾けている。それをを日本では「教育」と言っている。

その規格に馴染まない人間を何というか。「不良」という。なぜ「不良」というのか考えたことがあるだろうか。

規格に合わない製品は「不良品」だ。
教育に合わない人間は「不良」だ。

要するに、大量生産からはみ出した人間は、工業製品の不良品と同列で「不良」と言われているのである。そういった人間は、規格に合わないので、規格品を作るための会社は受け入れない。

規格に合わない物は「不良品」。規格に合わない人間は「不良」

学歴が高ければ高いほど「規格品」


日本の会社は、規格品を大量生産する場所だ。だから、教育からはみ出した人間は「規格品として合格していない」から雇わないで弾く。

会社は個性は求めていない。だから、学歴を重視する。学歴が高ければ高いほど「規格品」だと分かる。

よく覚えておいて欲しい。規格化された製品を作るには、個性などない規格化人間が必要になるのだ。工業化社会なのだから、そんな人間が大量に必要だ。

だから教育の現場では、子供たちを規格化するために、制服・平均点・団体行動を重視する教育を推し進め、ありとあらゆる仕掛けで子供たちを没個性化する。

機械の部品のように、何も考えないで働く人間を作り出すために、日本の教育というものはある。

しかし、「同じ規格人間を量産しています」という本音を言えば、誰でも嫌がって反発するし、場合によっては学生全員がボイコットしてしまうかもしれない。

「学校は人間を規格化しています」という本音は、為政者は絶対に言うことはできない。では、どう言って納得させたのか。

「平等」という言葉だ。

平等とは、「すべての人間が等しく同じ権利を持ち、同じように扱われるべきである」という美しい理念がこめられた言葉である。

しかし、学校は非人間的な教育の現場を、平等という言葉で言いくるめて目くらまししている。それが教育の現場なのである。

そして、為政者の思惑通り、可も不可もなく、没個性的で、自分の意見もなく、団体行動だけが得意な人間が大量に生み出される。

言われた通りにしか動けない。
言われたことしかできない。
自分で考えることはない。
マニュアルに沿って動く。
考えずに質問してその通り動く。

俗に言う「マニュアル人間」の誕生だ。あなたもロボットのように無能な人間を見たことがあるはずだ。日本の教育機関がそれを作り出した。

あなたは自分だけは違うと思うかもしれない。

しかし、あなたも教育を受けた。規格を押し付けられ、得手を封印され、「平等」という考え方を押し付けられた犠牲者である可能性がある。

あなたは、教育を受けて何か得たと思っているかも知れない。逆だ。学校というシステムの中で、あなたの個性は奪われたのだ。

あなたは、自分が本当の得意だったもの、自分の能力、自分の武器を奪われたのだ。

平等という言葉の下で、あなたは抑えつけられ、精神的に破壊され、本当のあなた自身は殺された可能性が高い。

あなたは、気がついていないかもしれないが……。

規格化された製品は、規格化された人間が作る。
そのために「平等」という名の「没個性化」教育が行われている。

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